凹んだ話

6月3日にちょっと書いた凹んだ話を書く。

 

端的に言うとこのツイート見て最初は共感して泣きたくなったんだけど、それ自体が茶番だな、という話。これが本質的に理解できていなかったことがショックで、めちゃくちゃ凹んだ。

まあコレ読んで「なんも分かってないやんけ!」とか「こんなシンプルな事も分かってなかったのかよ」って思う人もいるかもしれないけど、自分なりに苦悩したので大目に見てください。笑

 

 

以下は思った時点で言語化したもの。ほぼそのままなので時系列は無視してほしい。

破線の区切りは時間が経って読み返して書いた部分です。

時間は適当です。このくらいだったかな、という感じ。

 

6月4日、午前中:何がショックだったのか?
先日、黒人の不当な死に対するデモの中で暴力的な行為に反対する黒人の動画をTwitterで見た。
境遇に対して「自助努力もすべき」というツイートがあったけど「そういう部分もあるよな」と受け入れていた自分がいた。

ただ色々な意見を見ていく内に、そういうスケールの話ではない事に気付いた。
そもそも自分の努力でどうにかなる境遇とか、そういうレベルの範疇を超えていて、違う文化社会の中で生まれてどう生きて何を選ぶかなんて、永遠に理解できない。
そこで共感や理解が出来ていると思う方が傲慢なんだなっていう事に気付いた。

 

きっかけはアメリカの一部のポリスが1人の黒人の死に対して、跪くという事をやってたけどパフォーマンスにしか感じなかった事にある。
彼らが殺したわけではないし、デモの最中で幾ばくかの警官が跪いたところでなんの解決にもならないし、今後も同じ事してそうだな、と感じた。そこに実際的な意味で「社会を良くしよう」とか、どうやったら「より良くなれるか」みたいな問いは介在しない。ただエゴがそこにある。

 

自分は今まで黒人の歴史や境遇に対していたたまれない気持ちになった事は沢山あったし、色んなものを重ねる事もあったけど、そんなレベルの話じゃないんだよな…
ある程度こういう問題について人より感度高く考えてきたし、理解してきているつもりだったけど、何も見えてなかった…
それが今、とても悲しい。

 

昔から人と繋がりたくて、どうやったら頭の中で思った事を全く同じように伝えられるか?って考えたりしてたし、絶対に完全に同じようには伝わらないっていうのも理解していた。
でも自分がいざそういう境遇の人を目の前にしたとき、共感や理解が可能な前提になっていた。
このシンプルな矛盾に気付くのに、いったいどれだけかかったのか分からない。
今自分はフランスにいて色々な事を学んできたと思うけど、そういう違いも理解できていなかったのに何が見えていたのだろう?
見えない目で見て何が語れるというのだろうか?

 

その上で、何か語れる事があるんだろうか。今この瞬間の私には分からない。

 

6月4日(昼頃)-------------------------


ああ、それが知りたいから大学で学びたいのかな。

 

6月4日(夕方)-------------------------


しばらく考えてたけど、もうどうでも良いわ。


やりたい事もやるべき事も変わる訳じゃないし、それが分かったところで何も変わらない。
ウジウジしてるくらいなら行動して前進すべき。今視座が低くてもそのうち高くなるだろうし、そんなに深く考える意味はない。


考えすぎて頭でっかちになって前進できなくなる方が余程良くないし、行動力と熟慮のバランスが自分の取りえだからそれを崩したら意味ない。
どんなに浅はかだったとしても、自分のレベルで自分のベストを尽くす事以外にできる事なんてない。

 

科学や歴史や学問も大切だと思うけど、その上で頭で考えるだけじゃなくて実際に行動に載せたいし、やってみないと分からない事も沢山あると思う。


例えばピザを石窯で焼く時、それは理論じゃなく感覚でやってるし、例え頭の中で完璧な焼き方が理解出来ていてもプロと同じようにピザが焼ける訳ではない。


何れはピザ職人と同じレベルの物が機械で出来るようになるかもしれない。でもそういう余地は常に存在し続けると思う。


そういう行動と理論の矛盾を混沌と抱えながら生きていきたい。


ただ1つだけ言えそうなのは、前より少しだけ優しくなれたのかもしれない。 

 

6月5日(11時)-------------------------

 

ここからは今、この記事を書いてる時に読み返して感じる事。

 

まあ昨日書いた分は言い過ぎだったり過剰な表現だったかな、と思うところは沢山あるけど概ねこういうかんじかな…

それはそうと生活のストレスだったり、いろんなことが重なった事もあってかなり泣けた。

今も泣ける。でも泣いたらスッキリして、初心を思い出した。

 

改めて書くけど、結局のところ自分が「共感している・理解している・知っている」と思ってたものが崩れたのが大きかったんだと思う。

因みにこの3つの表現どれももあまり好きじゃなくて、微妙に自分が表現したいニュアンスとは異なっている…なのでここからはそれも考慮して読んでくれたら良いなと思う。

 

昨日はデモの話を主軸に色々書いたけど、今日は自分の身近な体験をベースに書く。

 

私はそれなりに特殊な家庭が周りに多くいる環境で育った。

例えば片親で奨学金給付金と借金を併せて大学院までいった友達、家庭環境のせいで頭は悪くないのに中卒で働いてた友達、元々発達障害を持っていて、会社で苛められて自殺未遂までいった友達などがいた。

 

今までは彼の経験を共感・理解が出来ていると思い込んでたんだよな。

3人とも一緒に半年以上一緒に生活してた事があったし、人生の中でも相対的に共有した経験の割合が大きかった事もあったと思う。

彼らの事を良く知っていたはずなのに、何も知らなかった自分に絶望した。悲しかった。

寄り添えるはずの自分が、最も遠い場所にいた。でも自分は傍にいた…

 

ただ助けられるときはもちろん助けた。その時高校生だった自分にやれる事はやった。

 

これらを踏まえて、共感出来ている/いないって言うのはさほど重要じゃないのかな、という所に思い至ったんだよね。

本質的な意味では理解出来ていなかったし、甚だしい勘違いをしていたかもしれない。そういう意味では偽善だったかもしれない。

でも実際に行動して力を貸すことが出来たから、それで良かったのかな、と思った。

 

確かに理解した気になって上からモノを言うのは間違った行為だし、自分が傍にいたのに寄り添えなかったことは本当に悲しいけど、でも「行動」という意味では同じことをしたと思うんだよね。

 

だからこれまでしてきた様にこれからも、困ってる人や苦悩してる人がいたら考える前に行動しようと思う。考えるのはいつでも出来るけど助けるのはその時しか出来ない。

 

今回の件で言うなら、あのデモのツイートを見た人の反応は様々だと思うけど、そこに義憤や悲しみを感じるなら少しでもいいから自分の行動に反映していくしかないんじゃないかな。

 

例えば私は大学で社会学を学びたい訳だけど、元々そういう社会の歪さをなんとかしたいから学びたくて、そこから考えると自分が勉強する事で「社会がより良くなる事に繋がる」と思えば行動しているとも言える訳で。

まあ常に世間の人が私の様な義憤から行動してるなんて当然考えてないけど、少しでも日常生活や人生の中に変化が起こればそれで良さそう。

 

個人レベルで出来る事なんてたかが知れてるし、こう書いてみると偽善や自己満っぽいけど、感動だけして何もしないよりかは行動が変わるっていう方が遥かに良いんだよね。

 

とは言えパフォーマンスみたいな事が行動のうちに入るとは思っていない。イベントみたいなもので、その瞬間だけ行動が変わるって言うのは何も変わらないと同じように感じるかな。

 それに独善で下敷きになる弱者がいたりする事も現実としてある事は理解しているけど、個人的なレベルでの共感とか誠意とか寄り添えるかとか、何が出来るのかっていう範疇ではこういう理解で良いのかな、と思う。

 

最後に自助努力の話に立ち返って書いてみると、ああいった偽善的な共感は敬意の欠如なのかなって感じる。

個々の考え方や行動が経験や環境によって隔絶されている中で、自分の尺度に当てはめて推し量ろうとする行為が敬意を欠いているんじゃないかな…

 

こうして考えてみると1人の人間として対等に向き合うって本当に大変な事なんだな~。いろんなバランスが難しい気がする。

 

まとめ

もう疲れたのでだいぶ適当にまとめると、

・偽善的な共感は敬意の欠如

・個人レベルでは偽善かどうかより行動するか/しないかの方が大切

こんなところかな。

 

超当たり前な事書いてるな。

まあ自分の思考プロセスを言語化する事で可視化出来たのは大きかったかもしれない。

 

 

無駄に長い思考駄々洩れ話を読んでくださった方、感謝します…